〈 知足 〉

 「知足」とは、読んで字の如く゛足ることを知る゛であり、゛不必要な欲心゛を抑えて不満を露出させないことをいいます。      (「心をたがやす」総持寺出版部)
 遺教経の中盤に「多欲の人は利を求むるが故に苦悩も亦多し、少欲の人は無求無欲なれば則ち此の患い為し・・(中略)若し諸々の苦悩を脱せんと欲せば富に知足を観ずべし」とあります。
 古歌にも「欲深き人の心と降る雪は、積もりにつれて道を忘るる」とあり、欲望から逃れることができずに道を過った人が多いことを歌っています。私事ですが、若い頃「車が欲しい、軽自動車でも中古車でもいい」と考えていました。しかし、軽自動車の中古車が手にはいると今度は「普通車がいい、新車がいい」とどんどん欲望が高くなったのを覚えています。
 「知足」とは満足することであり、「不知足」とは貪ることであることは誰でも知っていることです。また、遺教経にあるように「貪ることによって苦悩を自らが作り出している」ことも知っています。しかし、実際の生活の中で希望とか期待とかが生きる目標や支えとなり前向きな生き方の基盤になっています。難しいのは「希望や夢」と「貪る」ことのボーダーラインです。
 昨年の本山研修で栃木県の「足利学校」を訪れました。そこにあったのが「宥座の器」のミニチュアでした。これは古代中国の孔子の教え有名な話が残され
 孔子がこの器を見て
    「虚なれば すなわち傾き
     中なれば すなわち正しく
     満なれば すなわち傾く」
と、諭したということです。
 宥座の器とは「水がない時は傾き、中ほどに入れるとまっすぐになり、水でいっぱいにするとひっくり返る器」です。水をそのまま「欲望」に言い換えると「知足」を理解できるのではないでしょうか
 曹洞宗の御開山道元禅師はじめ多くの高僧が達観され「無求無欲」の境地に達しています。宗教家以外の経営者の中で「知足」の境地に達したと思われるのが、元経団連会長の土光敏光さんです。土光さんの生き方を知るにつけただただ感心させられます。
 前述の先達のようにはいきませんが私たちにできることは、今やっていることは・今やろうとしていることは誰のためなのか、大きくいうと大儀はあるかともう一度考え直すことが「知足」に通じると思います。

 
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