〈慈悲〉

 「慈悲」という言葉は、よく使われます。「無慈悲な人」とか、「お慈悲で」とか、「慈悲深い人」というように使われています。「慈悲」には絶対善という思いがありますが、本当の意味が使われているか考えてみたいと思います。
「慈」とは、「友」に由来し親しみのあること
「悲」とは、同化すること、つまり哀れむこと
      (悲しむもあります。)
とあります。「慈」と「悲」は一応違いますが本質的には同じ意味なのです。同じ気持ちに基づいています。違いは働きに出方の違いで、根幹にあるものは同じものでしょう。
簡単に言うと
「慈」・・・仲間の人に利益と安楽を与える
「悲」・・・不利益なことを外し苦を外してあげる
となります。
 もう少し深く掘り下げると、「慈悲」という言葉には釈尊の教えにある「自分と他人、そしてあらゆる動物が仲間」 と通じるものがあります。だから、自分の幸せは他人の幸せに繋がるのです。
 つまり、「相手の身になって考える」ことが仏教の解く「慈悲」の実践の基本にあると思われます。
 なぜ、相手の身になって考えるのか。それは、相手と自分が仲間だからです。自分が自らを護る、向こうも自己を護る、お互いが立場を理解し合わなければなりません。自己を愛するということは同時に他人の自己も重んじるということになり、他人の自己を重んじることは自己を護ることになるのです。
 こんな小話を聞いたことがあります。「1番辛かったことは隣の家が新築した時、1番嬉しかった時はその家が燃えた時」人間の本質を語ったものと言えましょう。私たちは「煩悩」が逃れることはなかなかできません。人間は誰しも「慈悲」の心を持っています。
 「慈悲心」を広げるよう心したいと思います。

(「仏教の言葉」 放送ライブラリー 奈良康明編 から 引用しました。)  

 
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